「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」の立ち上げ当初のエピソードが、今年から道徳の教科書へ掲載されていることを受け、先日、江名中学校さまにお招き頂き授業をさせて頂きました。
教科書の掲載内容は下記のとおりです。是非ご覧下さい。 「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」が道徳の教科書に載りました。福島県教育委員会さんのホームページにアップになっております!是非ご覧ください⇒http://www.pref.fks.ed.jp/ 平成26年3月 福島県教育委員会発行[ふくしま道徳教育資料集]3 高等学校編第Ⅱ集 敬愛・つながる思い(78P~81P:99P)
~三十年後の桜~http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/doutoku/h25/fukushima_doutoku_siryou_2.pdf
~三十年後の桜~… NPO法人ハッピーロードネットは、双葉郡の子どもたちのために活動している団体である。道路沿いのごみ拾いをしたり、花を植えたりといろいろなボランティア活動をしている。その活動の中心にいるのが、広野町に住む専業主婦の西本由美子だ。西本は、自分の子どもが自立してから、地域の子どもたちのボランティア活動を推進するNPOの活動をしていた。その活動の一つとして、近くの高校生たちと海沿いを走る浜街道に桜の木を植える活動をしていた。西本は、ハッピーロードネットのメンバーと会うたびに、桜が咲き誇る世界一美しい浜街道にしようと話していた。 西本は震災当日、仙台での会議に出席する予定があった。しかし、その日の朝はそれまでに感じたことのない体のだるさに襲われ、会議をキャンセルしたのだ。もし仙台での会議に参加していたらと思うと凍りそうになった。津波があったあたりを車で通過していて大津波にのみ込まれていた可能性があった。西本は、自分の命がある、ありがたさを痛感していた。 しかし、東日本大震災による大津波は、西本たちが植えた桜の木とともに、その活動の中心だった高校生の咲子の命を奪ってしまった。咲子は当時、卒業後の進路も決まり、運転免許を取得しようとしている最中であった。あの日、自動車教習所の送迎の車に乗っていたところを津波にのまれて、帰らぬ人となってしまったのだ。咲子の死を知ったときに思った。 (この生かされた命を無駄にしてはいけない。)
津波の犠牲になってしまった咲子は常々、「ボランティアは人に感謝すること。やらせていただくものだから、人にやらされるのではなく、自ら進んでやるものなのよ。」と後輩の中学生に教えていた。しかし、そんな咲子も西本と活動をいっしょに始めた頃は、学校の先生に無理矢理連れてこられて、しぶしぶやっていたのであった。その成長した咲子の命を、大津波は一瞬にして奪ってしまったのだ。 大震災と原発事故から一年が経った春に、西本は、避難先である仮設住宅のテレビ映像で富岡の夜ノ森の桜を見た。誰もいないところに静かに咲く桜の木々たちを見て、西本の目から涙が溢れていた。そして、そのとき、あの大津波にさらわれてしまった咲子への思いとともに、もう一度、「世界一美しい浜街道にしよう。」と思い立ったのだ。国道六号線沿いを満開の桜でいっぱいにしようと決心したのだ。西本はハッピーロードネットのメンバーに自分の気持ちを打ち明けた。 「六号国道に桜並木を作ろう。世界に誇れる浜街道にしよう。」 メンバー全員が西本の言葉に頷うなずいた。避難生活を強いられているにもかかわらず、メンバー全員が協力を申し出たのだ。 必要なものは、数えたらきりがなかった。まずは資金がない。どうやって桜の苗木を調達するのか。誰が植えるのか。誰が管理して、誰が維持していくのか。西本は考えた。自分のような年配の者ではなく、三十年後も活動できる人にやってもらおう。そこで、地元の青年会議所のメンバーに相談してみた。西本の熱い願いは受け入れられ、青年会議所のメンバーも意気込んだ。浜通りの各青年会議所へ連絡を入れ、賛同を得るまではさほど時間がかからなかった。しかし、問題は活動資金だった。 桜の苗木を国道六号線沿いの一九三キロメートルに植樹するとなると、少なくとも桜の苗木は二万本が必要となる。まずは、県の震災復興を担当する課に話を聞いてもらおうとした。将来の子どものための事業であることを熱く訴えたが、趣旨には賛同してもらえたものの、提示された額は、予算額の五分の一にも満たなかった。 資金の準備と並行して、植樹する場所の許可を得る交渉も始めた。国道六号線沿いに十二メートル間隔で桜の木を植える許可を国土交通省に申請した。そして、同じ頃、資金のめどが立たないまま、この桜のプロジェクトの事業をマスコミの力を借りて全国へ発信することにした。五月の最初の交渉から始まり、何度も何度も行政に出向き、復興を担当している課だけではなく、聞いてくれそうな課を回り歩き、賛同を求めた。西本は、自分の中の思いを絞り出すように担当者に訴えた。粘り強く、時には涙ながらに、 復興の意味と子どもたちの将来への希望を熱く訴え続けた。 「多感な子どもたちは、多くのものを失って、苦しい避難生活をしている。今ここで、大人たちが行動を起さなかったら、誰が子どもの三十年後を守ってやれるのですか。」ついに十月、計画していた希望通りの予算額を支援してもらうことができた。西本は、ハッピーロードネットのスタッフたちと抱き合い、皆で涙した。国土交通省への申請も済み、世界一の桜の名所をめざす桜プロジェクトは、本格的に動き出すことになった。さらに西本は精力的に動く。県外や県内の市町村へ出向き、それぞれの市町村長に会い、桜プロジェクトの賛同を得ようと必死になって訴えた。さらに、企業からの賛同も得ようと奔走した。会津若松市を訪れたときのことだった。立ち寄った蚕こ養国神社で、なんと樹齢千年を数える「峰張桜」の後継木を一本頂いたのだ。千年に一度ともいわれるような大震 災に千年生きる桜が見守るという「ご縁」を感じずにはいられなかった。そして、この木を復興の基地であるJヴィレッジに植えることに決めたのだ。さらに、しだれ桜で有名な三春町からは、三春滝桜の苗木を二本寄贈してもらった。その頃には、多くの企業からも賛同を得ることができ、植樹した後の桜の管理や維持費の準備も、徐々にではあるが整っていった。 震災から二年後、新地町を皮切りに、いわき市、南相馬市、楢葉町と浜通りの各地で、国道六号線沿いの桜の植樹がスタートした。翌月には、西本の地元である広野町での植樹も行われた。ハッピーロードネットのボランティア活動に参加していた地元の中学生たちも、避難しているいわき市から母親らと一緒に駆けつけた。 「おばちゃん、来たよ。」 聞いたことのある懐かしい声がした。西本の息子とその友人たちだった。 「みんな、どうやって来たの。」 西本の目には涙が溢れていた。息子と友人たちはハッピーロードネットのホームページを見て、東京から植樹にわざわざ駆けつけたのだった。 西本が忙しい合間を縫って協力をお願いし、賛同を得た企業の他に、個人の会員として桜のプロジェクトに賛同する人々の数も徐々に増えた。北海道から沖縄までの日本全国、年齢・性別を問わず幅広い世代にわたり復興を願う会員数は八千人を超えた。桜の苗木を植樹した人は、メッセージ入りのプレートを苗木に飾ることができた。広野町での植樹に集まった子どもたちの言葉が、西本の耳に残っている。 「西本さん、三十年後、花が満開になるときに、自分の子どもと来るからね。」
高校生用の道徳の教科書に、立ち上げ当初のエピソードから現在に至るまでを全5ページに渡り写真付きで取り上げて頂きました。大変光栄に思います!ありがとうございました!
「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」公式ホームページをリニューアル致しましたこちら⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/ オーナー基金申込はこちら⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/?page_id=60 WEBからも申込ができるようになりました!⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/?page_id=1085 公式FB https://www.facebook.com/hamakaidosakura — もっと見る
教科書の掲載内容は下記のとおりです。是非ご覧下さい。 「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」が道徳の教科書に載りました。福島県教育委員会さんのホームページにアップになっております!是非ご覧ください⇒http://www.pref.fks.ed.jp/ 平成26年3月 福島県教育委員会発行[ふくしま道徳教育資料集]3 高等学校編第Ⅱ集 敬愛・つながる思い(78P~81P:99P)
~三十年後の桜~http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/doutoku/h25/fukushima_doutoku_siryou_2.pdf
~三十年後の桜~… NPO法人ハッピーロードネットは、双葉郡の子どもたちのために活動している団体である。道路沿いのごみ拾いをしたり、花を植えたりといろいろなボランティア活動をしている。その活動の中心にいるのが、広野町に住む専業主婦の西本由美子だ。西本は、自分の子どもが自立してから、地域の子どもたちのボランティア活動を推進するNPOの活動をしていた。その活動の一つとして、近くの高校生たちと海沿いを走る浜街道に桜の木を植える活動をしていた。西本は、ハッピーロードネットのメンバーと会うたびに、桜が咲き誇る世界一美しい浜街道にしようと話していた。 西本は震災当日、仙台での会議に出席する予定があった。しかし、その日の朝はそれまでに感じたことのない体のだるさに襲われ、会議をキャンセルしたのだ。もし仙台での会議に参加していたらと思うと凍りそうになった。津波があったあたりを車で通過していて大津波にのみ込まれていた可能性があった。西本は、自分の命がある、ありがたさを痛感していた。 しかし、東日本大震災による大津波は、西本たちが植えた桜の木とともに、その活動の中心だった高校生の咲子の命を奪ってしまった。咲子は当時、卒業後の進路も決まり、運転免許を取得しようとしている最中であった。あの日、自動車教習所の送迎の車に乗っていたところを津波にのまれて、帰らぬ人となってしまったのだ。咲子の死を知ったときに思った。 (この生かされた命を無駄にしてはいけない。)
津波の犠牲になってしまった咲子は常々、「ボランティアは人に感謝すること。やらせていただくものだから、人にやらされるのではなく、自ら進んでやるものなのよ。」と後輩の中学生に教えていた。しかし、そんな咲子も西本と活動をいっしょに始めた頃は、学校の先生に無理矢理連れてこられて、しぶしぶやっていたのであった。その成長した咲子の命を、大津波は一瞬にして奪ってしまったのだ。 大震災と原発事故から一年が経った春に、西本は、避難先である仮設住宅のテレビ映像で富岡の夜ノ森の桜を見た。誰もいないところに静かに咲く桜の木々たちを見て、西本の目から涙が溢れていた。そして、そのとき、あの大津波にさらわれてしまった咲子への思いとともに、もう一度、「世界一美しい浜街道にしよう。」と思い立ったのだ。国道六号線沿いを満開の桜でいっぱいにしようと決心したのだ。西本はハッピーロードネットのメンバーに自分の気持ちを打ち明けた。 「六号国道に桜並木を作ろう。世界に誇れる浜街道にしよう。」 メンバー全員が西本の言葉に頷うなずいた。避難生活を強いられているにもかかわらず、メンバー全員が協力を申し出たのだ。 必要なものは、数えたらきりがなかった。まずは資金がない。どうやって桜の苗木を調達するのか。誰が植えるのか。誰が管理して、誰が維持していくのか。西本は考えた。自分のような年配の者ではなく、三十年後も活動できる人にやってもらおう。そこで、地元の青年会議所のメンバーに相談してみた。西本の熱い願いは受け入れられ、青年会議所のメンバーも意気込んだ。浜通りの各青年会議所へ連絡を入れ、賛同を得るまではさほど時間がかからなかった。しかし、問題は活動資金だった。 桜の苗木を国道六号線沿いの一九三キロメートルに植樹するとなると、少なくとも桜の苗木は二万本が必要となる。まずは、県の震災復興を担当する課に話を聞いてもらおうとした。将来の子どものための事業であることを熱く訴えたが、趣旨には賛同してもらえたものの、提示された額は、予算額の五分の一にも満たなかった。 資金の準備と並行して、植樹する場所の許可を得る交渉も始めた。国道六号線沿いに十二メートル間隔で桜の木を植える許可を国土交通省に申請した。そして、同じ頃、資金のめどが立たないまま、この桜のプロジェクトの事業をマスコミの力を借りて全国へ発信することにした。五月の最初の交渉から始まり、何度も何度も行政に出向き、復興を担当している課だけではなく、聞いてくれそうな課を回り歩き、賛同を求めた。西本は、自分の中の思いを絞り出すように担当者に訴えた。粘り強く、時には涙ながらに、 復興の意味と子どもたちの将来への希望を熱く訴え続けた。 「多感な子どもたちは、多くのものを失って、苦しい避難生活をしている。今ここで、大人たちが行動を起さなかったら、誰が子どもの三十年後を守ってやれるのですか。」ついに十月、計画していた希望通りの予算額を支援してもらうことができた。西本は、ハッピーロードネットのスタッフたちと抱き合い、皆で涙した。国土交通省への申請も済み、世界一の桜の名所をめざす桜プロジェクトは、本格的に動き出すことになった。さらに西本は精力的に動く。県外や県内の市町村へ出向き、それぞれの市町村長に会い、桜プロジェクトの賛同を得ようと必死になって訴えた。さらに、企業からの賛同も得ようと奔走した。会津若松市を訪れたときのことだった。立ち寄った蚕こ養国神社で、なんと樹齢千年を数える「峰張桜」の後継木を一本頂いたのだ。千年に一度ともいわれるような大震 災に千年生きる桜が見守るという「ご縁」を感じずにはいられなかった。そして、この木を復興の基地であるJヴィレッジに植えることに決めたのだ。さらに、しだれ桜で有名な三春町からは、三春滝桜の苗木を二本寄贈してもらった。その頃には、多くの企業からも賛同を得ることができ、植樹した後の桜の管理や維持費の準備も、徐々にではあるが整っていった。 震災から二年後、新地町を皮切りに、いわき市、南相馬市、楢葉町と浜通りの各地で、国道六号線沿いの桜の植樹がスタートした。翌月には、西本の地元である広野町での植樹も行われた。ハッピーロードネットのボランティア活動に参加していた地元の中学生たちも、避難しているいわき市から母親らと一緒に駆けつけた。 「おばちゃん、来たよ。」 聞いたことのある懐かしい声がした。西本の息子とその友人たちだった。 「みんな、どうやって来たの。」 西本の目には涙が溢れていた。息子と友人たちはハッピーロードネットのホームページを見て、東京から植樹にわざわざ駆けつけたのだった。 西本が忙しい合間を縫って協力をお願いし、賛同を得た企業の他に、個人の会員として桜のプロジェクトに賛同する人々の数も徐々に増えた。北海道から沖縄までの日本全国、年齢・性別を問わず幅広い世代にわたり復興を願う会員数は八千人を超えた。桜の苗木を植樹した人は、メッセージ入りのプレートを苗木に飾ることができた。広野町での植樹に集まった子どもたちの言葉が、西本の耳に残っている。 「西本さん、三十年後、花が満開になるときに、自分の子どもと来るからね。」
高校生用の道徳の教科書に、立ち上げ当初のエピソードから現在に至るまでを全5ページに渡り写真付きで取り上げて頂きました。大変光栄に思います!ありがとうございました!
「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」公式ホームページをリニューアル致しましたこちら⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/ オーナー基金申込はこちら⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/?page_id=60 WEBからも申込ができるようになりました!⇒http://happyroadnet.sakura.ne.jp/wpinfo/?page_id=1085 公式FB https://www.facebook.com/hamakaidosakura — もっと見る