Sir.ボビー・チャールトンがJヴィレッジを視察http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2013/99.html
ボビーさんは、Jヴィレッジの名付け親。今から17年ほど前、日本サッカー協会がボビーさんに施設のネーミングをお願いし、ボビーさんはこのサッカーナショナルトレーニングセンターを「Jヴィレッジ」と命名しました。 「Village」は、「村」のほかに「人が集う場所」という意味があるそうで、スポーツを愛する多くの人々がここに集い、語らう場所になったらいいという願いを込めたそうです。
Jヴィレッジは1996年にオープン。太平洋を臨む約50ヘクタールの敷地には、5000人収容のスタジアムが1面、天然芝のサッカーフィールドが11面、そのほか、屋根付き練習場、フットサルピッチ、テニスコート、フィットネスクラブなどがあり、オープンから2011年までの15年間で103万人もの人々が大会や合宿などでここを訪れました。 2006年にはJFAアカデミー福島がスタートし、Jヴィレッジを拠点に活動(現在は、静岡県で活動中)。2009年にはFIFAゴールプログラム(*1)初の医療施設としてJFAメディカルセンターが開設されました。同センターでは、合宿や大会時にケガをした選手のケア、地域で整形外科やリハビリテーションを必要とする人々の健康をサポートするほか、スポーツの競技力向上や障害予防などに関する研究なども行ってきました。
<震災前のJヴィレッジ>
ところが、2011年3月11日、東日本大震災により炉心溶融と建屋爆発事故が発生。Jヴィレッジは東京電力の各部門からの応援者や協力企業、自衛隊、消防などが集合する原発事故対応拠点となりました。今年7月に原発事故対応拠点が第一原発内に移転しましたが、現在も作業に携わる人々の宿舎として使用されるなど、2500人もの人々がJヴィレッジを経由して周辺の現場で働いています。
Jヴィレッジ到着後、ボビーさんは早速、Jヴィレッジ内のメインスタジアムへ。
<小倉名誉会長と話すボビー・チャールトンさん。左隣りはノーマ夫人>
アレルギーの子どもでも安心してプレーできるよう、無農薬で育てたという自慢のピッチには、作業員用のプレハブの宿舎や食堂などが建ち並び、観客席がなければそこがスタジアムだったとはわからないほど。ボビーさんは「多少はピッチが残っているものだと思っていた」と、やるせない表情を見せていました。
<スタジアムの掲示板の時計は、地震が起こった2時46分で止まったまま>
東京電力㈱原子力安全・統括部の二見稔部長の話では、宿舎は単身寮で1部屋4畳ほどの広さ。今年ようやく建物の中にトイレやシャワーができたといいます。それまでは別棟に行かないと用も足せず、シャワーも浴びられなかったそうですから、作業に携わる皆さんは過酷な状況の中で懸命に作業をされているということです。「できるだけ早く、福島県、JFA、Jリーグの皆さんにお返ししたい」と二見部長はおっしゃっていましたが、作業員の皆さんが早く家に帰るためにも、早く、一日も早く、除染など事故の収束が望まれます。 想像以上の状況にボビーさんも心を痛めつつも、「ここで頑張って働いている人たちがいて心強い」と話していました。
視察に同行した福島県の内堀雅雄副知事の「2020年のオリンピックまでにはなんとか元に戻します」という言葉に、小倉名誉会長も大きな期待を寄せます。 「もし、男女日本チームが宮城スタジアムで試合するとなれば、Jヴィレッジでキャンプを張って宮城に行ける。日本代表チームがJヴィレッジでキャンプすることがJヴィレッジ再建のシンボルとして世界に発信できるだろう」と小倉名誉会長。ボビーさんも「2020年の東京オリンピックに合わせて、ここが役に立つことを期待したい。イングランドとしても出来るだけのサポートをしたい」と語っていました。
視察後は、ふくしま浜街道・桜プロジェクトの一環で、ボビーさんはノーマ夫人、小倉名誉会長、内堀副知事らとともに、Jヴィレッジの前でソメイヨシノを植樹。その後、SAMURAI BLUE(日本代表)の専属シェフの西芳照さんが経営するレストラン、アルパインローズで食事を取り、Jヴィレッジを後にしました。
「2020年にはオリンピックを観に、また日本に来ます」とボビーさん。その時には、きっと、施設は緑に溢れ、地元の人々など大勢の人たちで賑わうJヴィレッジに戻っていることでしょう。
(*1)FIFAゴールプログラムはブラッター会長の提案によって1999年に設置された助成制度で、協会本部やテクニカルセンター、ピッチなどの施設等に対する、FIFA加盟協会のそれぞれの施策(FIFAゴールプロジェクト)に助成し、プロジェクトの達成を支援するもの。